わたしが漫画家をしばらくお休みした理由「育休編その2」

「育休編その2」です。

今日は、そもそもなんで、子育てと漫画家が両立出来なかったの?ということで、先日の育休編の続きを書いてみます。

世の中には、出産しても、ものともせず、サクサクお仕事続けてる漫画家さんもいますもんね?

そこは、個人差も、家庭事情もありますので、あくまで私の場合、を書いてみますね。

漫画家というのは、はたから見たら、もしかしたら、好きなことを仕事にできて、楽しくて、気楽な商売のように思われる方も、いらっしゃるかと思うのですが、実はなかなかに、厳しいお仕事です。

商業誌に描くためには、当然、編集側の意図や、読者アンケートの影響などもあり、好きな漫画を、好きなように、描けるわけではありません。

締め切り前は、特に、精神的にも、肉体的にもキツく、幾夜も徹夜し、心が休まらない日が続き、ある意味、ぎりぎりのところまで追い詰められます。

締め切りが終われば、しばらくは、ラクになるかと言えば、それはほんの一瞬のことで、ひとつの作品が完成したら、すぐに次の作品のアイディアに取りかかります。

そのアイディアを得るため、常にいろいろなところにアンテナを張り、勉強や取材をします。

何もないところから、コンセプト、テーマ、ストーリー、世界観、キャラクター設定、場面構成とセリフ(ネーム)を構築し、その頭の中のアイディアを、人に見せられる形に書き表わすまでには、まさに「産みの苦しみ」的な苦労が伴います。

漫画のアイディアを考えているときって、まるで深海に潜りにいっているような感覚、とでも言いますか、ある意味、日常から隔絶されたところまで、自分を追い込むような作業の、繰り返しとなります。

時に、人の日常とは、かなりかけ離れて、心だけ遠くを旅しているような気持ちにもなります。

学生の頃から走り続けて来た、漫画のお仕事をお休みして「リアルな日常」の世界に戻って来た時に、実感したこと。

それは、漫画で忙しくしていた時期、もしかしたら日常の半分くらいが、上の空だったのではないか?と思うくらい、ある意味「今浦島」的な、とでもいいますか、とにかく新鮮な感覚でした。

それは、例えるなら、空の雲や、道端の花の美しさとか、こどもの愛らしい笑顔とかが、それまでが50パーセントしか感じなかった感動が、120パーセントに感じられるようになったような感じです。

大げさに思われる方もいらっしゃるかと思いますが、もしかしたらこの感覚は、漫画家をやったことがある人しか、わからないかもしれません。

わたしにとっては、漫画家は、まさに馬車馬のように、常に全力で走り続けないと、出来ないお仕事でした。

もっと楽なスケジュールを、自分で調整できないの?と思われるかもしれませんが、フリーランスの場合、せっかく来た仕事を断る、てことは、次の依頼は二度と来ないことを覚悟しなければならない、命とりな行為なのです。

断る勇気がないと、時には、絶対無理かも⁈と思われるようなスケジュールを、こなさないとならない、地獄のような日々が続いてしまう羽目になります。

そんな脅迫観念と闘ってた、漫画家時代を振り返ると、常に何かに追われているような、いつも時間が足りないような、強いストレスを感じていて、心にゆとりが持てなかったように思います。

そんなお仕事を抱えながら、小さな泣く子をほとんど一人で子育てしていた日々を振り返ると、精神的にも、肉体的にも、まったく余裕がありませんでした。

もちろん愛情だけは、たっぷり注いでいたつもりですし、一緒に居られるときにはいつも、ぎゅーっと抱きしめて育てたつもりではありますが、仕事の忙しさにかまけて、どこかでこどもの気持ちをないがしろにしていたりもしたのでは?と思うと、恐ろしい位くらいなのですが、その時は、その怖さにさえ、気づいていませんでした。

そこらへんをバランスを取って、上手にできちゃう方もいらっしゃると思うのですが、不器用な私にとって、漫画家は、子育てに大変不向きな、両立しにくいお仕事であったことは、お休みし、振り返ってみて、改めて実感しています。

わたしにとっては、子供が一番可愛いこの時期に、自分のこどもときちんと向き合うこと、子育ての時期にしか体験出来ない、こどもとのかけがえのない日々を楽しむことは、無理に漫画を書き続けることより、価値があるように思えたのです。

そこへ来て、ムクムクと頭をもたげて来たのが、写真と映像への興味でした。

かわいいこどもの、愛らしい姿を残したい。

多分、これはお子さんを持つ方なら、皆さんご経験があるのでは?と思います。

心が動く一コマを写し、記憶する「写真」と「映像、映画」。

自然の美しさや、いのちの存在の素晴らしさを切り取り、フィルムに焼き付ける喜び。

漫画やイラストにはない感動が、そこにはありました。

こどもと向き合い、気持ちに寄り添い、こどものもつ力を借りて、より素晴らしい表現となる。

「こどもとの共同作業」が可能な表現であれば、創作の時、こどもを置いてきぼりにしたり、誰かに預けたりする必要もありません。

漫画から、写真や映像に、創作意欲がシフトするのは、むしろ人の親の親心としても、ごく自然なことだったのかもしれませんね。

ただ、そこに、漫画家としての業?みたいな、芸術欲?創作意欲?物語欲というか、そういうものが加わることにより、わたしの写真は少なくとも、「フツーの親がフツーに撮った、かわいいこどもの写真」というところから、少ーしずつ、変化して行きました。

次回に続きます。