「わたしが漫画家を選んだ理由?」完結編

高3の秋、宮崎駿氏のお言葉をいただき、女子美大進学を決めたわたし。

「漫画家」になるにせよ、それ以外のジャンルの「表情者」になるにせよ、「人間力」を高めることが先決、と自分なりに悟り。

女子美大学入学を機に「オタクな自分を変えよう!」という決意のもと、女子美大学の新入生歓迎会の中で、一番輝いてる人たちを探しました。

まさに、ショーゲキ的にキラキラに輝いて見えたのは、岡安由美子先輩率いる、パフォーマンス集団『秘密結社G」でした。
http://middle-edge.jp/articles/I0002470

彼らを見た瞬間、即座に「ココだ!」と直感したわたしはその世界に飛び込みました。

そして、3年間、「秘密結社G」こと、女子美演劇研究会に所属し、無我夢中で、舞台演劇、歌、ダンス、パフォーマンスなどの生のエンターティメントを勉強しました。

活動はかなりハードで、柔軟や発声、早口言葉、エチュード、ボイトレなどの基礎練習は、ほぼ毎日。

早朝練、昼休練、放課後と、年三回の舞台発表のための稽古の日々。

そして、ハマると深掘りせずには居れないわたしは、先輩や同輩に誘われるまま、大劇場のミュージカルから小劇場のアングラ演劇、つか演劇、夢の遊眠社などの大学演劇、宝塚からテント劇まで、観覧に出かけました。

映画、アニメ、ライブ、舞踏、バレエ、コンテンポラリーダンス

美大時代は、今思っても、本当に贅沢な、エンタメ三昧の日々でした。

その一方、やはりテーマは「人間力」てなことなので、ボランティアの学生団体に所属し、全国各地で、様々な奉仕活動にも勤しみ、その活動の一環で、コーラスグループにも参加。
そこでのちの主人とも知り合いました。

もちろんそれは、好きなことを、思う存分に勉強させてもらえる環境を、横ヤリを入れず、反対もせず、周囲が許し、機会を与えてくださっていたからこそで、そんな風に疾走する日々を、黙って支えたくれた両親、特に母親には、本当に感謝でいっぱいです。
(普通、なかなかそういう親ばかりではないと思います。)

さて、そしてお題となります「漫画の方は?」と言えば。(汗)

年に一度、漫研時代の友人に誘われて、同人誌に、オリジナルの短編を描くのがせいいっぱい。

お恥ずかしい話「わたしが漫画家を選んだ理由?」と、ハテナがつくのは当然で、正直、部活引退するまでの3年間、私の中では、漫画は二の次、三の次でした。

ただ、おかげさまで、女子美時代、付属もあわせて7年間の間、実に豊かな環境で、あらゆる芸術文化に触れ、自分が興味のある表現、殆どを、思う存分「自分でやってみて、試す」ことが出来ました。

(学生時代、唯一、触れていない分野がありましたが、それはまた後ほど)

興味があることについては、とにかく「自分で試さないと」それも、ある程度「深掘りしないと」気が済まないタイプの人間のわたしは、1日が何時間あっても足りないくらい、走り回ってました。

当時から周りの友人に、良く「いつ見ても同じところに居ない。」とか「スピード線しか見えない。」みたいに言われて笑われました。

それでも、絵を描くことだけは異常?に手が早く、実技教室にほとんど姿が見えないのに、なぜか、学校の課題だけは、誰よりも早く仕上げているので、みんなに不思議がられてました。苦笑。

そしていよいよ三年の夏あたりから、就職活動の時期となりました。

皆さんも、その時期は、自分の将来について、いろいろ悩みますよね?

わたしも一緒でした。

ただ、言えるのは、興味があることを、やりたいだけやってみると、ある程度わかるのが「自分の限界」や「才能のあるなし」です。

初めから興味がなく、得意でもない、もしくは、嫌いなことを、「一生の仕事」に選ぶ人は少ないと思いますが、
大好きで、ものすごく努力をしてみても、他人に叶わないこと、人並み以下にしか出来ないことは、やはり「仕事」には向きません。
(皮肉にもわたしには「演劇」や「身体表現」がそれでした)

また、とにかく好きではあるけど、趣味として、ファンとして、楽しむ程度がちょうどいい、てこともあります。
(わたしの場合、アニメ関係、音楽関係がそれでした。)

逆に、好きな上に、努力をそれほどしなくても、なぜか、ヒトより得意なこと、他者からの評価を得られることがあるとしたら、それは「仕事」となる可能性があると思います。
(わたしの場合、絵を描くこと、写真を撮ること、物語をつくることがそれでした)

最初に面接を受けたのは、祖父の紹介で訪ねた、一般の雑誌の編集社でしたが、そこで、「君はどんな仕事がやりたいの?」と、質問された時、「絵を描くことと、お話を書くことです。」と答えたわたしに、面接担当者は「それって、漫画じゃないの?」と。

その時、漫画家については、すでに高校の時、自分ではある程度、才能に見切りをつけて、「職業」と捉えていなかったわたしは、ちょっとびっくりしました。

更に、同じ時期、ある漫画の編集をされてる方が、文化祭の時に、漫研時代の友人の同人誌に描いたわたしの作品を、たまたま読んで、わざわざ訪ねて来て、こんな言葉をくださいました。

「君の漫画には、読後感がある。漫画を描ける人はたくさん居るが、読後感のある作品を描ける人はそんなにいない。」

それは、本当に嬉しい言葉でした。

わたし自身、一部のハリウッド映画みたいな、見てる時は派手で楽しくても、その後になんにも残らないような作品より、地味でも、後からジワリ、と効いてくる、ヨーロッパ映画のような作品の方が好きでしたので。

「ちょうど年末に、ウチの雑誌で大きな賞があるから、投稿作を描いて、応募してみたら?」と勧めてくださいました。

わたしは、それまで、積極的に、何にでもチャレンジをして来たようなつもりでいましたが、漫画を「仕事にする」というところには考えが及ばず、実は、それまで一度も「投稿作品」を描いたことはなかったのです。

つまりは、勝負を挑む前に、逃げていたんですね。

この時期に、背中を押してくださる、二人の編集さんのお言葉をいただけたのは、今思っても、ほんとにラッキーなことでした。

「わたしは、いつも、自分の漫画を他の誰かと比べて、ダメだ、無理だ、と自分で限界を決めて、あきらめてた。人がどう思うか、じゃなくて、自分が本当に面白いと思う漫画を描けばいいんだ。どんな評価が出ても構わない。今の実力のせいいっぱいを出してみよう。社会に出る前の、これが最後のチャンスかもしれない。」と、わたしは初めて覚悟を決めて、早速、投稿作を描き始めました。

作品に選んだテーマは「演劇」。

三年間、自分なりに打ち込んできた舞台への想いを、すべてその作品に込めるようなつもりで描きました。

そして、その漫画が、年間新人漫画賞にひっかかり、担当さんから「おめでとう。次の作品でデビューだよ。」と言われた時は、夢かと思いました。

そして在学中に、今度は、ボランティア活動を通して学んだ「人の想い」をテーマにしたSFの作品を描き、無事、投稿作2作目にして、奇跡的にデビューが叶ったのでした。

このふたつの作品のどちらも、「マンガ図書館Z」で無料で読めますので、ご興味あるかたはぜひ。
杉山祐子で探してください。
一応、リンク貼っときます。http://www.mangaz.com/book/detail/75231

まとめです。

わたしが今の仕事を選んだ理由。

多くの仕事に、採用試験があり、また、試用期間があるように、いくらなりたい、なろう、と思っても、漫画家だって、まずはどこかに「応募」をして、誰かに「採用」されなければ、プロにはなれません。

ですから、最終的には、「漫画家を
私が選んだ」というよりは、わたしが「選んでもらった」から、「漫画家」になれた、ということになるのだと思います。

美大時代、「漫画」からすっかり離れた三年間、すごい遠回りをしたように感じる方もいるかもしれませんが、おそらくは、「演劇」や「ボランティア活動」という回り道をして、「人間力」を磨く勉強をしていなければ、おそらくデビューは叶わなかったのでは?と思います。

そしてまた、「漫画」は、実は多分に「演劇」的な要素や、才能を必要としています。

主人公の気持ちになって演技をさせられなければ、読む人に、主人公の
生きた感情は伝わりませんし、その演技を、最も効果的に見せるためのカメラワークや、適切な演出がなければ、漫画の物語をドラマチックに描けないからです。

なので、もし、漫画のネーム(演技や演出)で悩んでる人がいるなら、思いきってなんらかの方法で、演技や演出を学ぶ機会(単発のエチュード、ワークショップなど)を持つと良いのでは?と思います。

そんなわけで、わたしが漫画家となれた恩人として、ファーストインパクトを与えてくださった萩尾望都先生と、わたしに「遠回り」を勧めてくださった、宮崎駿氏と、新たな世界へ導いてくださった、岡安由美子先輩と女子美演研「秘密結社G」の諸先輩方には、今だに足を向けて眠れません。

本当に感謝です。

長くなりましたが、「わたしが漫画家を選んだ理由?」
これでいったん、終わりといたします。

ここまで読んでいただきまして、本当に、ありがとうございました。

もし、わたしの活動に少しでも興味を持っていただけたなら幸いです。
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