わたしが漫画家を選んだ理由?

わたしが漫画家になろう、と決意したのは中1の時。

出身は東京世田谷区瀬田。

某航空会社に勤める両親、特に父親からは、「大きくなったらスチュワーデスに」と言われ、幼稚園から英語教育のある「上野毛幼稚園」に通いました。

父が厳しく、ウチにはいろんなルールがありました。そのひとつが、小学生まで、なぜかうちは、漫画を買うのが禁止で、夜7時以降はNHKオンリー。
アニメやこども番組は禁止で、夕方までの再放送しか見られなかったので、むしろ、そちら方面の話題には疎い子でした。

それ以外にも、休日の朝は、父の趣味のレコード鑑賞(クラシック)を家族全員で聴くとか、片付けをしないとすべて庭におもちゃを放り出されるとか、怒られると、お仕置き部屋として、
お勝手口の寒くて暗い物置きに閉じ込められるとか、ヘンテコなルールがいろいろありました。

ただ、その物置きには古いオルガンが置いてあり、閉じ込められると、父の怒りが治るまで、寂しくて泣きながらも、そのオルガンを弾いたり、埃だらけの古い本を探し出して読んだりしてました。

辛い気持ちは、音楽や本などに熱中することで癒す、みたいなことは、その頃から身に染みて覚えたのかもしれません。

習い事は、ヤマハ音楽教室と、英語と、お絵描きとお習字。
英語以外は好きでした。苦笑

某大学の教授の祖父から、お誕生日プレゼントに毎年、アンデルセン童話集を贈られて、「いつか、ゆうこのアンデルセンを描きなさい」なんて言葉をもらって、漠然と「お話をつくり、絵を描ける人になれたらいいなぁ」という気持ちはありました。

絵を描くことと、本を読むこととが大好き。
空想好きで、お話をつくり、うさぎを擬人化した絵物語を、絵の好きな従姉妹と色鉛筆でノートに描いたり、時には小さな劇にして、弟、妹、従姉妹にも役を振り、ごっこ遊びみたいな、お芝居みたいなことをして、家族や親戚に、披露したりしてました。

父母は子供達を生のエンターティンメントに触れさせることに熱心だったので、子供達三人連れて、映画館にディズニーや、東映のアニメーション映画を見に行ったり、何時間も並ぶような人気の展示をしている美術館、博物館などにも良く連れ出してくれました。

美術、映画、演劇、唄、オルガン、ピアノ、管弦楽など幅広く興味を持てたのは、そのおかげだと今でも感謝しています。

将来の夢を聞かれると「お絵描きの先生」か「絵本作家」。

とにかく表現すること、人を楽しませることが好きでしたが、その選択肢の中に一度も「漫画家」はありませんでした。

むしろ親からの刷り込みで「漫画はくだらないもの、役にたたないもの」と思いこんでいたのかもしれません。

そんなわたしに、大きな変革が起きたのは、中学に上がり、父親が単身赴任となり、母が再び働き始め、禁止されてた漫画やテレビアニメを見られるようになってから。

忘れもしない、中1の夏休み、祖父の別荘のある蓼科に行くとき、母にねだって、初めて少女漫画の月刊誌「別冊マーガレット」と「別冊少女コミック」を買ってもらいました。

それまで、学校や近くの図書館にある、児童文学やSF小説をほとんど読みつぷしてしまうくらいの本の虫だったわたしには、正直、漫画は「こどもの読む物」的な、軽いレクリエーションくらいの気持ちしかありませんでした。

でも、山小屋には、活字といえば、数冊の絵本と、図鑑と、学研の「科学と学習」あとは祖父の研究の難しい物理化学の本。
持ってきた宿題の読書感想文のための本。

全部読み尽くしてしまうと、活字に飢えてしまう私は、もうその買ってきた漫画雑誌をも、それこそ繰り返し繰り返し読む羽目になったのです。

そして、運命の出逢い。

そんな刷り込みの、思い込みを覆す、恐ろしくパワーを持った漫画が、その雑誌の中にあったのです。

それは、別コミに掲載されていた、萩尾望都先生の名作「11人いる!」の前編でした。

後編に続く!